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紀伊國屋サザンシアターで7月7日まで公開されている劇団民藝『プライス』を観劇してきました。『プライス』はアーサー・ミラーの1968年の作品で、本邦初演。
修士論文で扱った作品ということもあり、生き別れた身内と会うような、「あー、本当にハープなんだ。すげぇ。はっ、あの椅子は……」等々マニアックな感動を覚えながらの観劇。しかしライブで見るアーサー・ミラー作品、やはり「演劇作品として」の判断を、つまり、だから、私が最近見聞きした他の作品、主に日本の作品、との比較の中で考えたりしてたのですが、意外だったのは、戯曲の段階では決まりすぎてて「どうなの?」と思っていた警句的なセリフが、実際に役者さんの口から発せられたときに心地よく入ってきたこと。演者4人きりの完全リアルな舞台で、一家の歴史が、薄皮を一枚一枚剥がしていくような辛抱強さで徐々に明らかになっていく。そんななか、突然ぽーんと、社会を通観するようなセリフが出てきたときの迫力? 考えてみれば私がはじめてミラー作品に接したのは1953年の The Crucible (『るつぼ』)で、この作品が私をミラー研究へと駆り立てることになった作品なのですが、何に感動したかというと、
発端はメロドラマです。主人公の農夫プロクターとかつて召使いとして働いていた少女、アビゲイルとの浮気があって、その後ろには実直だけれど自信のない奥さんなんかもいたりして、卑近といえば卑近な、そのぶん馴染みやすい愛憎の図。それが、後に社会を震撼させる「魔女狩り」の主要な原動力になっていき、さらにそれは1950年代アメリカの「赤狩り」の構図と重なっていきます。そして最後にプロクターに突きつけられる決断は、浮気の代償としてはあまりに巨大すぎる、人間の尊厳を試す踏み絵。メロドラマから社会から個人の尊厳へ、規模の違ういくつもの層を、変な言い方すれば「臆面もなく」行き来している、もちろんそれは他愛のない日常がCG処理によってやたら壮大なイメージに結びつくとかのシュールさとは違ってね。。。「社会派」って、ミラーはよく言われるけれど、決して社会ばっかり扱ってたわけではなく、それを個人の心の動きと直結させたところに偉大さがあると思う。 書くならこういう作品を書きたいなぁ。 と思ったのが研究を始めたきっかけだったなぁ。 しかしミラーの作品を見ると、「モラル」ってすぐ近くにあるなぁと思う。道徳・倫理とか、あまりかしこまったものではなく、個々人の持つ善悪の基準ですか。「良心」に近い。『プライス』の登場人物たちもそれぞれ自己を正当化する言葉を持っていて、その意味では悪人は一人もいない。もちろん自己中心性への密かな自覚はあるけれど、飽くまで個人的「善」の範囲を出ないようになっていて、だからこそ欺瞞を暴かれたときに痛々しい。突然秋葉原の事件だけれど、あの件についても「なんて自己中心的な、身勝手な」とか言われるけれど、本人はあまり自分を「悪人」とは自覚していなかったように思う。むしろ「助さん、格さん、もういいでしょう」みたいな、「もういいでしょう」感? 自分は軽んじられていて、それは明らかに人間として不当な扱いである、社会は自分に負債を持っている。それがかつてないほど膨らみ、ぷはっ、今なら事件を起こしても「自己正当化できる!」と思ったときに、ああいうことになったんじゃないか。 全然違うかもしれないけど。 ということで、『プライス』の舞台は、役者さんたちの巧みさもあり、「世界が立ち上がる」ような感覚を覚えたのでした。 |
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