昨日からBSでバック・トゥ・ザ・フューチャーシリーズがやっていて、昨夜それを発見した父が「バック・トゥ・ザ・フューチャーやってるよ」と言ってきたときにはもうエンディング間近で、「こんなことならいっそ、知らないほうがよかったよ!!!」って私は叫んで、なので今日はパート2をはじめからしっかり見ました。 ウィキペディアで調べたら、パート1を製作した当初は続編を作る予定はなかったということです。それが、「TV放映の際、ラストシーンに「TO BE CONTINUED...(つづく)」という劇場公開時にはなかったテロップをジョークで入れたところ、これを見た人達(マイケル・J・フォックスもその1人)による続編製作希望の問い合わせが殺到した為、急遽シリーズ化された(ウィキより)」すなわち、パート2以降は後付け! 無鉄砲に作った(かは知りませんが)パート1をうまいこと利用しつつ、「未来を描く」という、タイムトラベルものの醍醐味を体現しまくったパート2です。また、この作品では2015年にタイムスリップするのですが、そこに「カフェ80`s」的な名前の、80年代の風俗を敢えて取り入れたようなレストラン+カフェ+ゲーセン的お店が出てきます。店内のテレビにマイケル・ジャクソンが映っていたり、また、銃の早撃ちを競うゲーム機が出てきたり。すごいなと思うのは、この作品が製作されたのが1989年なわけで、つまり依然80年代にありながら「80年代」を既に客観視してしまっているということ。条件としては2008年にいる我々が、2000〜2010年を客観視するのとほぼ同じであるといえるのですが、2000年からここまで、時代を象徴するような物品または人物または事件を挙げよといわれてもなかなか思いつきません。なんだろな…… 2000年以降新たに出てきた趨勢ということならある程度出せるように思うのですが、それが「この時代ならでは」のものだとは思えない。つまり、2010年以降もぼやぼや続いていくように思えてしまう。 えー、でも作ってみたいな、カフェ2000 |
コロンビアの小さな田舎町に住む17歳の少女マリアは、家計のためにバラ農園でトゲ抜きのバイトをしているが、ボーイフレンドの子どもを妊娠。仕事をやめることに。しかし、どうしてもお金が必要な彼女は、パーティで知り合った若者から、麻薬を胃の中に飲み込み、ニューヨークへ密輸する仕事を紹介され、報酬ほしさに引き受ける。彼女は、袋が体内で破れたら死んでしまう危険を知りつつ、62粒の麻薬を飲み込んだ…。(商品説明より) 貧困にあえぐ少女が望まぬ妊娠、生計のために麻薬の運び屋になるという筋に目新しさはありません。でもこの作品の凄いのは、麻薬を運ぶくだり。上の説明にもありますが、飲み込むことで体内に取り込み、いわば自らの肉体を容器にして国外に運び出すのです。その麻薬なのですが、粉状のものが一定量ずつ袋詰めにされています。一袋がだいたい巨峰くらいの大きさ。おそらくそれが丸呑みできる限界で、それをまた体内に取り込めるぎりぎりくらい飲み込んで、飛行機に乗ります。 そして上空。主人公は誤って麻薬の袋を排泄してしまい、苦肉の策として歯磨き粉で表面を滑りやすくし、再び飲み込みます。また、彼女と一緒に乗り込んだ運び人の中には体内の麻薬が元で体調を崩す人もいたりと、文字通り息の詰まるような空間。飛行機酔いなんて吹き飛ぶような壮絶な状況が、他の客には気付かれないところで淡々と繰り広げられるのです。 そしてここからは全く私の個人的な感じ方になるのですが、上のような状況を通し、私は「精神と身体の分離」というものを常に感じ続けたのでした。主人公が麻薬を運んでいる間、身体は単なる容器として、そして、時には容器にさえなり切れない不便なものとして存在しています。その状態におそらく近いと思われるのが、病気になって普段より身体の限界を強く意識している時。実際、主人公は飛行機の中で、「これ以上悪くならない」よう祈る病人のように身体をこわばらせ、時間が過ぎるのをじっと待っています。 そしてそんな極度に身体を意識する状況にあって、精神は妙に崇高というか、これもまた完全に個人的な感覚なのですが、例えば病気になったとき、「こんな色々考えないで済めばずっと楽なのにな……」と思ってしまうような、妙な「いらない」感を精神に対して抱くのです。何も意識せずとも身体と精神が一体化している日常を離れ、身体が極端に弱った状態で、精神は独立します。それを丸ごと持て余し、「こんなに高度なものあってもいま困るんだよ〜、いらないんだよ〜」って。もちろん、身体が弱ると精神も弱るということもあるかと思いますが、それよりは手前の、飽くまで「身体」と「精神」を強く意識している状態です。その図式を、私は麻薬を運んでいる最中の主人公に感じたのでした。 すると何が凄いかというと、最後、主人公はある決断をして歩き出すことになるのですが、そこでは彼女の「決断」が彼女の「身体」を動かす、つまり、精神と身体が一体化した状況が提示されるのです。彼女の精神が再び彼女を支配し、しかし以前とは違い、それまでにさんざん私は「精神」の崇高さみたいなものを意識しているわけですから、その崇高さが今度は彼女の隅々まで行き渡り、彼女自身、あたかも崇高さの結晶になったかのように感じてしまうのでした。この作品の原題は "Maria Full of Grace" なのですが、まさにその "Full of" の感じ。もちろん以上のような流れは意図されたものではおそらくなく、私がサブ的に抱いたものに過ぎないとは思うのですが、それで強調されたラストはかなり良かったです。 |
|
イライジャ・ウッドが美少年らしいということで観ました。
仲の良い二家族がいて、でも妻は他方の夫と、夫は他方の妻と、それぞれ隠れて浮気してる。さらに子供たちも性的な遊びに足を踏み入れ・・・と、いわゆる「荒廃した」様子を淡々と描いていきます。それだけだと露悪的すぎる感。 ただ、娘役のクリスティーナ・リッチが自転車で走っているところを長回しした場面の表情など、人間がただ重力を受けて生きているだけで否応なしに感じる疲れのようなものを映し出しており、「あぁ、それじゃあセックスに走るわ」と妙に納得できてしまうという。 イライジャ・ウッドも美少年であり、総じて良かったです。 |
|
| ホーム |
|




