喪主
  

  『喪主』
               黒川陽子


人間の別れって、こういうものなのでしょうか。
ここが葬儀場のホール。少し前に流行った純愛ドラマの、聴き慣れたBGMがおとなしく流れています。「世界の中心で愛をさけぶ」の音楽が流れています。
人の死に顔というのを、私ははじめて見ました。恥ずかしい話ですが、父が亡くなったときも母が亡くなったときも、私は間に合いませんでした。私が駆けつけたときには弟たちの手配で万事整えられたあとで、父も母も静かに目を閉じ、白いハンカチの下でねむっていました。
人がああいう顔をして亡くなるということは、今回はじめて知ったのです。最初は、憤りを感じるほどでした。ああもう抜け殻になってしまったのだ。空っぽなのだ。五十年連れ添って、最後に何もなかった。ただピタリと、あなたであることをあなたはやめてしまったのです。苦しいだろうに息もせず、瞬きもせず、舌も動かさず、おそろしい物ぐさのようにさえ感じてしまいました。でも不思議なもので、看護婦さんが来て目を閉じ、口を閉じてくれると、みるみる中身が戻ってきたように感じたのです。そして私、微笑んでいるようにさえ見えるあなたを見て、この人は立派な人生を送ったのだと思いました。
全員が席につきました。こんなに大勢の人が参列してくれるなんて素晴しいことです。もうすぐ通夜がはじまります。
きれいな祭壇。
孫たちが燈籠を出してくれました。中央にあるあなたの写真は、折に触れてあなたが「よく撮れている」と言っていたものです。遺影を用意していなかったから、咄嗟に、それならあなたが一番気に入っていたあの写真が、適当だろうと思いました。少し若すぎるかもしれないけれど。青空を背景にうつっていますが、白黒ではわからず、スタジオで撮ったように見えます。引き伸ばしてもあまりぼやけなかったから、よかった。
この三日間、私は悲しむ暇もないほど働きました。父が亡くなったときも、母が亡くなったときも、どこか遠いことのように感じていました。私はもう別の生活を築いていたし、結婚するときに一度、両親との「別れ」は済ませたように思ったから。この世に生れてきて、自ら築いた関係が終るときに、本当の「別れ」が来るのだと思いました。
あなたを送り出せるのは私だと、あつかましいかもしれませんが、そう思ったのです。あっという間の五十年でしたが、それでも人生の大半を過ごしてきました。私だけが自信をもって送り出せる。知っている限りのところに電話をして、弔電もたくさん送ってもらいました。花輪の並べ方も私に決めさせてもらいました。祭壇のお花は、これは葬儀場の方にお任せしてしまったのですが、想像していたよりもずっとたくさん、飾っていただけました。お寺にもご挨拶に伺いました。参列してくださった方へのお返しの品も、葬儀場の方が見せてくださったカタログからいちばん品のあるものを選びました。あなたの人柄が偲ばれるものを選んだつもりです。亡くなって以来、お線香の火は絶やしませんでした。そして昨夜は一睡もしないで、あなたへの別れの言葉をしたためました。こうして全てが整い、これ以上なくあなたにふさわしいものとなった祭壇を前に、私は初めてあなたとの別れを噛み締めているところです。
ああそれなのに……
控え室で勧められて飲んだコーヒーがいけなかったのでしょうか。それとも、慣れない着物がいけないのでしょうか、まだ始まってすらいないというのに、なんだかおしっこ。
でも私はいちばん前の席で、間もなく式も始まるし、式の進行をする葬儀場の方もマイクを構えています。開式の六時まで十分弱。ああ、そう考えるうちに黙祷がはじまりました。目をつむって、まぶたの裏にあなたの姿を思い浮かべます。ようやく目を開けて壁にかかっている時計を見ると六時五分前くらい。「開式まで、そのままお待ちください」というアナウンスが流れました。五分間、なんてもどかしい五分間なのでしょう。行こうと思えば今のこの一瞬にお手洗いに行けたかもしれないのに。この一瞬にも。私は体面を気にしているのでしょうか。こんな状態では、とてもあなたを悼むことができません。
燈籠が回っていてきれい。
住職様が入ってきました。左側の廊下からいらっしゃったようです。ああ、生きている人間はどうしてこう罪つくりなのでしょうか住職様。住職様。五十年間連れ添った主人を悼もうというときにです。今生の別れです。ああどうしてコーヒーが存在するのでしょうか住職様。住職様。
あなた。
あなたはもうこういう恥ずかしさを経験しないで良いんですものね。あなたはもう何も感じることがないのです。ああ私、何考えているのかしら。あなたとの別れを悲しむべきときにあべこべに恨みがましいことを考えるなんて。私、本当に感謝しているのです。唯一の夫があなたで心からよかったと思います。だからこそ、せめて住職様のお経が終わるまでは、あぁ……
考えないようにすればするほど、意識してしまいます。もちろんあなたのことじゃありません。おしっこのことよ?おしっこだなんて私。もう仕方ありません。こうするのがきっと、一番目立たないし、迷惑もかからないでしょう。忘れるのが一番。涙をこらえるようにぎゅっと目を閉じて、ああ、住職様がおりんを叩いていらっしゃいます。あなたの心のように澄んだ、美しい響きでいらっしゃるのね。


わたし寝ます。






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【2008/01/13 23:39】 | 『喪主』 | トラックバック(0) | コメント(1) | page top↑
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