『獄死』
黒川陽子
開いたナプキンから零れ落ちんばかりになっている。足をもう少しだけ開く必要があった。狭い個室のなか脚をつっぱるように立ち、太ももまで下げたパンツがまっすぐ張れるようにし、ナプキンの中央、盛り上がるほどに溜まった経血に目をやる。できるだけ動かさないよう前のほうに指を差し込み少しずつ剥がしはじめると、ナプキンの裏の粘着物質が化繊の生地をひっぱりしみじみした音を立てた。
ナプキンの中央、盛り上がった経血はジャムのように見える。
剥がした生理用ナプキンを先のほうから丸める。ナプキンの裏が手のひらに貼り付く。剥がそうとして、経血が横に流れた。手のひらを反対に傾ける。そのまま丁寧に巻き続け、春巻きのようなロール状にする。寒い。
彼女は下着を膝までおろし、前をひっぱりながらしゃがみこむ。タイルの隙間の黒ずんだ部分からえぐるような臭気が押し寄せてくる。足元はグレーの細かなタイルだ。目の前は白い、大きめのタイルだ。目の前のタイルに沿って左上にゆっくり視線を這わせていくと、やっと尿道が開いておしっこが落ち始めた。二時間連続の授業だったから、久しぶり。少し痛い感じがする。左の目がかゆい。左の目を掻きながら隅の三角コーナーに入れたナプキンを一瞬見た。
右手にあるトイレットペーパーを手に巻きつけて破った。しゃがんだまま股に差し入れて拭く。大虐殺でもあったかのように経血が激しく濡らす。もう一度、トイレットペーパーを手に巻きつけ、股に差し込む。そのまま太ももを閉じ、落とさないように気をつけながら腰を上げる。左側の扉のホックにぶら下げたキルティング地のポーチに手を伸ばし、右足を浮かすようにしながらファスナーを指でつまむ。股に挟んだトイレットペーパーが落ちそうになっている。こわごわ、もう少し足を浮かす。トイレットペーパーがはがれて落ちる。便器の左側に立ってポーチから新しいナプキンを出した。パンツに貼ってパンツを上げ、便器に落ちたトイレットペーパーを見る。
換気扇の音が響いている。
水を流し、教員トイレを出る。
昼の職員室は暖房のあたたかさとは違う変な熱を持っていた。手前で先生が、コーヒーのポットの底を削いでいる。ALTのナターシャは、明るい飴色の髪をこちらにむけて机ごしに話をしていた。
「ナターシャ」
気がつかない。
「ナターシャナターシャ」
いつも多めに呼ぶ。「ナターシャ」は、昔からなりたかった名前のひとつだ。宝塚で『虹のナターシャ』というのを見てからいい名前だなと思っていた。
「ナターシャ」
いい名前だな。
「ナターシャ」
小作りの顔が不安げにこちらを見ている。
「ナターシャ、購買部のパン買いにいこう」
「行きます」
ナターシャが立ち上がった。
ここで話は、先ほどトイレに捨てられたナプキンに移る。まだかすかに熱を残しているナプキンだ。ナプキンは小さな三角コーナーの中に自らを見出した。
潜水している感覚。個室の隅の三角コーナーには色んな音がくぐもって伝わってくる。コロコロコロコロいう換気扇から、同じくコロコロいう、でも鈴の音に近いおそらく水の音。
ナプキンは耳を澄ましていた。
それから個室の外、さらにトイレの外だろう、連なって歩く足音とひびく声とが急速に近づいて通り過ぎていった。「ナターシャはさぁ、冬休みには実家……」
薄暗い。天井には大きな円形の穴があいてわずかながら光を採りこんではいるが、圧倒的な陰と湿った空気の中にかき消されてしまっている。ここで最後の時間を過ごす。ナプキンは最後に焼却されるまでの数時間を「ナターシャ」という名で過ごそうと考えた。小さな三角コーナーの中、ナプキンは新たに「ナターシャ」となった。
しかし……、
とナターシャは思った。
ナプキンとして生まれたからにはある程度覚悟していたことだけれど、経血が染みてきて気持ち悪い。ぐちゅっと、潰れるような感覚があって、浸み出した水っぽい経血がナターシャの上質なポリエステルの隙をぬってじわりじわり染み込んでくるのだ。きつくロールされてしまったからだろう、真ん中に溜まった経血が……
ナターシャは戦慄した。一瞬、自棄を起こしたようになった。かろうじて残っていた白い部分、清潔な横モレ防止ギャザーにまで水っぽい経血が入り込んできたからだ。思わず放心した。
ナターシャは大量生産のナプキンだった。しかしその本質は、ナプキンという外見にはおよそそぐわないものだった。まず経血が嫌い。何を考えてるかわからないから。液体から固体から自在に形を変えながら、必ず思いも寄らない形をとってナターシャの中へ染み込んでくる。むしろナターシャは哲学がやりたかった。フーコーとか、デリダとかもいい。高度に言語化された哲学的命題、または近代における自我といった問題を考えたりしたかった。
高すぎる志――
そんなナターシャにとって捨てられた場所が私立の女子高のトイレだったということはせめてもの救いだったかもしれない。華々しいアカデミアの殿堂。まだパンツに貼られてその主人である英語の教師とともに動いていたとき、ナターシャはパンツの外にわずかに感じた教室の空気を、胸をときめかせながら吸い込んだ。飛び交う英文、異国情緒溢れる 「r」音、そして教室に集う、限りない未来を持った女学生たち。
他人の経血にまみれてロールされる運命なんて。
叩くような音がして、暗さが増した。同時に擦るような、湿った呼吸。せわしない呼吸。場所を調整するような足音がし、小さな金属が擦れ合う。一瞬の静寂があった後、はるか上のほうでしていた呼吸音が急速に降りて近づいてきた。
ナターシャはやるせない気分になった。
かすかに声の混じった鼻息。続いて細い、勢いのある水音と、しぶき。におい。シャーッ。におい。シャーッ。安堵したようなため息。それから水滴の力なく滴るおと。
わたしがいる間に大きいほうはしないで……。
ナターシャは祈った。自分は監獄のような空間にいて、その外では巨人が排泄している。
自分が女生徒だったら。
と、ナターシャは考えた。
既に教員トイレは静寂が包み、頭上でかすかに流れていた放送の音も消え去っていた。
わたしが女生徒だったら。
バラ色のラブレターをたくさん受け取るわ。きっと制服の似合う、きらきら輝く少女になる。誰よりも素敵に制服を着こなしてみせるわ。
休み時間が終わっていた。力なく横たわるナターシャから、存在しなかった人生への思いがトイレの壁を伝って昇っていった。換気扇の音だけが静寂の一部のように鳴り続けていた。
わたしは通学中も人の目を引く。ミスコンテストに推薦されるかもしれない。チェックのスカートから伸びる滑らかな脚。でも決して下品にはならないの。内側から滲み出る気品よ。わたしの生活はすべてこの内側から滲み出る、どうしようもない可能性で輝く。
こちらから出て行くことはしないの。それでも滲み出てしまうのよ、わたしの肩から腰から身のこなしから。
ナターシャは微笑んだ。
でも全てを断って勉学に励むわ。花の切り紙をはさんだ教科書、美しいノート、果てしのない罫線。わたしの指が小さく動くたび、実現されなかった可能性がいよいよ膨らんでわたしの身体を包むでしょう。けれどわたしは勉強。わたしの可能性を嘆く数多くの悲鳴を尻目に、勉強。もちろんそこでもめきめき頭角を現していくのよ。そんなとき油断して出場してしまった文化祭のミスコンテストでわたしはグランプリをとるの。やわらかな白色のドレスがステージ上でひらりひらり舞う。そこにかねてからわたしの評判を聞きつけていた映画のプロデューサーが見に来ていて、楽屋にいたわたしに名刺を渡しにくるの。映画女優にならないか? あまりに熱心な誘いよ。君なら映画界に一時代を築ける。いよいよ避けられないと思ったわたしは国外に出ることを決心する。一路欧州を目指す。降り立った空港でマクビティーのビスケットを買って、その素朴な質感とともに透き通った異国の空。枯れ葉にココア、香水の瓶が七色に輝いている表通りのカフェーで哲学するの!
ナターシャは高揚した。
個室には白い光が差し込んでいた。午後の日差しが、昇降口の脇にある教員トイレに淡い光を投げかけていた。
便器のポンプを流れる水が弱々しい音をたてた。廊下で物の落ちる音がし、その残響がしばらく続いていた。ナターシャは力なく転がっていた。高揚の先にある単調なリズムがナターシャを苛み始めていた。
忌々しい経血……。
今や重しとなってナターシャをトイレに縛り付けている。バカみたいだわ、わたし。まるで後生大事に抱きしめて。
個室に差し込んだ光が風とともに動いていた。天井の陰が東へむけて、ゆっくり移動していた。
綺麗なナプキンのままだったら風に乗って欧州まで飛んでいけたかもしれない。
光が再び、ふんわりと床を照らした。
