ルーシーの掃除
  

  『ルーシーの掃除』
                  黒川陽子


ルーシーが突然の掃除熱に冒されたのは、四月にしては蒸し暑い、ある午後のことだった。一九七五年。ウォーターゲート事件を受けてのニクソンの辞職、ベトナム戦争の後遺症、そして八十年代の狂騒へと、世の価値がこれまでにない変貌を遂げる、一端でのことである。
ルーシーは口の中のチョコレート・ドーナッツを飲みこむと、水をたっぷり注いだブリキのバケツをリビングまで運んだ。そして、水は要らないことを知った。
〈乾いた布に直接つけてお使いください。こすらずなでるだけ〉
ボトル裏の説明書きには、小さなバケツマークに赤のバッテンがついている。
ルーシーはまた立ち上がった。レモン色の小花模様のワンピースがふんわり開く。四十三歳だが、あどけなく見える。
それを発見したのは一ヶ月前のことだった。
いつもの例で午後のテレビ番組をソファに横たわってヘレンと一緒に見ていて、ヘレンが、やおら「これいいわ!」と叫んだのだった。
オーバル形の画面のなかで男性が色とりどりの文字を次から次に消してみせていた。Aを二つに分断し、次にターンして戻ってきた手がたちまちそのかけらを二つとも消した。ルーシーには子供がいない。「お子さんのラクガキも、クレヨンの跡もひと拭き」という売り文句はいまいちピンとこなかったが、その鮮やかな手つきには素直に感心した。爽快だった。
ルーシーがいちばん買いたかったのはジュエリーだった。模造だけれど新鮮な色を出している、ルビー……
そこでジュエリーを注文するときその商品も一緒に注文してあげたのだが、届くより前にもともと旦那さんの転勤がどうとか言っていたヘレンが突然引っ越していなくなってしまい、結局、その拭き取り剤〈ピカリンハイ〉はルーシーのもとに新品のまま残されたのだった。
少し前から壁の黒ずみが気になっていた。やはり人の触れるところが汚れやすい。築二十五年になるが、あまり部屋に物を置かない主義のルーシーとしては、壁も綺麗にしておきたかった。以前水拭きしたが黒ずみは消えず、かえって染みになりそうだったのでやめた。〈ピカリンハイ〉が役に立つのなら、無駄にならなくて良い。
しかし、これがルーシーにとって衝撃だった。
たちまち黒ずみは消え、かわりに見たこともないような白色が雑巾の下から姿をあらわしたのだ。あまりにスムーズだったので、強すぎる溶液が壁紙をはがしてしまったのかと思った。しかしそもそも壁紙は貼っていない。
ルーシーはこわごわ、指先で壁に触れてみた。
やはり元の壁だ。でもこの白さはなんだろう。ひとつ皮が剥けたように、本来汚れていないはずの周囲の壁とも違ってしまっている。雑巾を裏返して確かめてみたが、おそらく「黒ずみ」だったであろう汚れがついているだけで、一体何を拭き取ってしまったのかはっきりとはわからなかった。
ルーシーは部屋を見回した。しかし驚きを上回る大きな納得が、彼女の胸をとらえていたのだった。たしかそうだった。最初にこの家に入ったとき、まだモルタルのにおいが漂っていたこの部屋は、
こんな色をしていた――
小花柄のカーペット、台所までまっすぐにつながっている、ムク材の床、急激な階段のスロープ…… 一見、清潔に保たれているそれぞれの箇所に、しかし表面的な汚れや埃とは違う、年月の経過が、確実に陰を落としていた。壁もそうだ。あんな色じゃなかった。階段の壁も、あそこまで暗くはなかった。なんでまた、これが普通だと思ってしまったのだろう。
再び雑巾に〈ピカリンハイ〉の溶液を垂らし、ルーシーは周囲の壁へと手を伸ばした。同じような白さが顔を出す。ルーシーは興奮した。本来の色だと思っていたものが剥がされ、真実が顔を出す。開拓すべき、新たな大地だ。こんな日常の中に。
流していたレコードを切って、作業に没頭した。台所から椅子を運んできて、上のほうも拭いた。それでも届かないところはモップを利用した。
夫は、褒めてくれるだろうか……。
みるみる家の中が明るさを取り戻して行く。そしていよいよ、あとひと拭きで壁の全てを真っ白に塗り替えようというとき突然、〈ピカリンハイ〉のプラスチックのボトルが頼りなげに空気を吐き出した。

夫は六時に帰ってきた。家に入るなり、
電球を取り替えたのか?
そう不審そうに尋ねた彼の言葉は、ルーシーに自信を与えた。家を管理し、そして美しく保つハウスワイフ。けれど、昼間から待ちわびた有頂天の時間は、長くは続かなかった。夫は壁の一点に近づいた。
「これは?」
「ああ、それ……そこだけ」
「なんだ、この色」
「お薬が足りなくなっちゃって」
「え?」
夫はしばらくその部分と他の部分の壁とを見比べていたが、
「汚したのかと思ったけれど、じゃあ拭き……」
「そこだけ残っちゃったのよ」
皮肉なことだった。あと一息で全ての壁を美しく塗り替えようというとき、図らずも〈ピカリンハイ〉を使い切ってしまったことに気がついたのだ。ルーシーは四方の壁を順に拭いていったから、それはちょうど、ルーシーが掃除を始めた辺りだった。数時間前、驚嘆と共に眺めた白さがすぐ左手にある。けれど家を一周した今、最後の最後にそのギャップを埋めることができなかった。
ほぼ赤ん坊大の拭き残し。
何でこすっても無駄だった。水拭きを試み、ついにタワシまで持ち出したが、〈ピカリンハイ〉の威力は唯一無二のものだった。つい今朝までは全くの日常であった壁の汚れ。いやむしろ、壁全体が一様に着色されていたため、「汚れ」という意識さえなかった。しかし今、壁は元の純白を取り戻し、拭き残した部分が相対的に浮き上がってしまっている。まるで意図的に塗料を投げつけたかのようだった。
「ベンジンが混じってるのか?」
「企業秘密なんじゃない?」
「ベンジンは入ってないみたいだな」
夫は〈ピカリンハイ〉のボトルの裏を眺めながら、しばらく拭き残しの前に立っていた。ルーシーがしびれを切らして呼びかけると、一応はソファに座るものの、しかしテレビを見るような素振りをしながら相変わらず拭き残しを眺めていた。
実際それは、妙に神経を苛立たせる光景だったのだ。
その夜、ルーシーは隣で寝ていたはずの夫がベッドを抜け出し、リビングの隅でなにやら作業しているのを発見した。そして立ち上がった彼が、壁にペンキを塗りつけようとするのをすんでのところで食い止めた。いっそ全部塗り直す、と息巻く夫の足元にあるのは茶色のペンキだ。昨年の夏、物置を塗るのに使った残りである。
「なんだってこんな半端なところから始めた。角から拭けばみっともないことにはならなかったろう!」
「はいはい」
依然、苛立つ夫をなだめながら、ルーシーは午後じゅうかかった自分の努力が無下にされたような、やりきれなさを感じていた。

数日後、ルーシーはひとり、拭き残しの前に立っている。もうすぐ左官屋がやってくる。結局拭き残しは消えず、家具で隠しても「汚れている」感じは拭えなかった。プロの手を借りて家じゅうの壁を塗り直すことに、昨夜決定したのだ。
最後のあがきとして通販会社に電話をかけてみたが、〈ピカリンハイ〉は売り切れ、再入荷の予定も立っていないということだった。
ルーシーは拭き残しを見つめた。この汚れ。私達夫婦の二十五年の歳月。
不意に、馬鹿馬鹿しいような気分になった。これは私たちが一緒に過ごした証。むしろ、そう、子供のいない自分たちにとって、この赤ん坊ほどの染みは、自分たちが四半世紀もの時を共に過ごしてきた唯一の証じゃないの。それを塗りつぶすなんて。それ以前に、この汚れを受け入れることができないなんて。のみならず苛立つなんて。
ルーシーは結婚した当初のことを思い返していた。当時は戦後の結婚ブームで、若かった二人は、半ばノリのような勢いで共同生活に足を踏み入れた。それから二十五年、この染みに慣れないということは、自分たちにとってこの夫婦生活が、紛れもない異物であるということだ。燃えるような切なさに駆られ、ルーシーは思わず壁の汚れに手をつっこんだ。

つき指したー。





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【2008/01/30 16:35】 | 『ルーシーの掃除』 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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