そして、まだ読み終わっていないのですが、私的に気になる部分が出てきたので引用。 「そしてその矢代まさこの代表的作品であり、少女マンガ史の中で大きな意味を持つ「ようこシリーズ」はそういった矢代の表現の実験であり、少女そのものを追求しようとする試みであった。昭和三十九年から四十一年にかけて発行された全二十八巻のこのシリーズは、二十八人のようこという少女を登場させる。もちろん、それぞれのようこはみな違う立場にいるし、話もつながってはいない。このシリーズの共通点は、主人公の名の音読みが「ようこ」であるという一点なのだ。いうならば、ようこという名の持つ無名性があらわす「少女」そのものに他なるまい」(p.129) かねがねメジャーな名だとは思っていましたが、無名性… 無名性であるか…… |
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テレビ番組で、メイクの技とか顔面マッサージの技とかを紹介するとき、その見本というか実験台になる女性がいると思います。たぶんモデルさんだと思うのですが、いつも奇妙だなと思うのは、顔の右半分だけとか、左半分だけとか、片側だけを施術されるということ。右側だけメイクをして左側と比べ、「あ、格段の差ですね」とか、左側だけマッサージして右側と比べ「わー、左だけ小顔〜!」とか。Beforeの写真との比較が以前は多かったように思うのですが、それをライブで、しかも顔の真ん中に赤道線を通して見せてしまうという。人の顔は左右対称である、という大前提。
きっとあのモデルさんにも適性があって、まず、メイクならメイク、マッサージならマッサージだけを見てもらえるように、あまり強い個性は持っていないということ。スッピンで画面に写っても見苦しくないけど、同時に化粧栄えもするということ。マッサージの効果が良く出るように、あらかじめ微かにむくんでいること。そして顔の対称性が保たれるようにホクロやニキビがあまりないこと。 あとおそらく重要なのが、モデルとしてそこにいることの誇り、でしょうか。上のような仕事の場合、施術された側の顔は褒められ、されていない側は否応なしにけなされることになります。つまり、「褒め」と「けなし」の両方を同時に受けるというこれをダブルバインドといいますか? それでも「私って、何?」等思わず、少なくとも現在皆の視線を集めているという事実で立ち続けられることが重要です。 求人:左右非対称モデル 資格:20歳〜30歳位迄 ・ナチュラルな個性の方 ・スッピンに自信のある方 ・メイクで変わる自信のある方 ・女性らしい柔らかなお顔立ちの方 歓迎! 第一級のプロの技を実証する、モデルとしてのやり甲斐を感じられるお仕事です。 |
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報われる善性を描いたのが「賢者の贈りもの」だとすれば、全く報われない善性を描いたのがこの『O・ヘンリ短編集(1)』に収録されている「善女のパン」です。
↑ ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 主人公はパン屋を営む40歳のミス・マーサ・ミーチャム。そこに週に二三回やってくる中年の男性がいたのでした。彼はいつも必ず固くなった古パンの塊を買っていきます。きっと暮らしが厳しいのだろうと察した彼女は、あるとき、彼には内緒で古パンにバターを仕込んであげます。 しばらくして荒々しく押し入ってきた男性。彼は激しく怒り狂っていて、マーサに対し、ついに「おまえみたいなやつを、おせっかいのバカ女というんだ」と叫んだのでした。一緒に来た友人により、その男性は建築の製図家であること、そして鉛筆の下絵を消すのに古パンの屑を使っていたということが明かされます。マーサの仕込んであげたバターは、彼が三ヶ月前から取り組んでいた市役所の設計図を駄目にしてしまったのでした。 男性の暴言はマーサの不憫さを強調しますが、男性の方にももちろん同情すべき余地はあって、彼は設計図を懸賞に応募するつもりだったらしいと。実際、着ている服は粗末だし、中年になってのこの挑戦はかなりの賭けだったのだと思います。心血を注いだ設計図があかんようになって、しかもその原因が愛情に溢れたバターであると悟ったとき―― 作品はマーサ目線で書かれていますが、ぜひこの男性目線でも一篇読んでみたいところです。『冷静と情熱のあいだ』みたいに。 |
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宮崎あおいが出ているアフラックのCM。そこで流れる軽快な「アヒルのワルツ」。サビのあひるんるん。
私はよく、CMの歌、つまりCMソングを口ずさんでしまうのですが、この「あひるんるん」に関しては一瞬戸惑いました。なんでかなー。と思い、そして思ったのが、「アヒル」という名詞に「るんるん」という活用がついているのが異様だったのじゃないかと。例えば誰かを親しみを込めて呼ぶとき、その人の名前に「〜ぼん」とか「〜っち」とか特に意味のない語尾を付け加えることがあると思うのですが、それは行為としては、固有名詞に固有でない音をつけることで、より共同体の側に引きつける意味合いがあるのではないかと思うのですリズムをつけて呼びやすくすると同時に。なので「固有名詞+意味のない音」という組み合わせは我々日常、聞き慣れている。でも「アヒル」って普通名詞じゃないですかー。つまり別に親しい呼び方にする必要のないものに意味のない音がついてるわけで、慣れない。「イメージキャラクターがアヒルなのでアヒルにちなんだ歌をなんとか」というCMならではの環境が生み出したポエジーだなぁと思います。 |
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クマ・・・・・・・・・・・・・・・永遠の友だち
セキセイインコ・・・・・・・音声・語学習得のエキスパート フラミンゴ・・・・・・・・・・・スーパーモデルたちの孤独 アカシカ・・・・・・・・・・・・愛しのノロちゃん ヒツジ・・・・・・・・・・・・・ウール革命を待ちわびて クジラ・・・・・・・・・・・・・大いなる胃袋へのご招待 ハイエナ・・・・・・・・・・・意外な狩りの名人 ニワトリ・・・・・・・・・・・・人口卵工場ができるまで ヒキガエル・・・・・・・・・・一妻多夫制の悲劇 ニシン・・・・・・・・・・・・・未知との遭遇・海底編 ウサギ・・・・・・・・・・・・・かくされた家庭内暴力 キリン・・・・・・・・・・・・・都会暮らしに最適のパートナー ゴキブリ・・・・・・・・・・・命がけの片想い パグ・・・・・・・・・・・・・・小さなボディーガード ミミズ・・・・・・・・・・・・・世界で一番大きな糞 ワニ・・・・・・・・・・・・・・海緑色の瞳からこぼれる涙 カッコウ・・・・・・・・・・・みんなのお荷物 コガネムシ・・・・・・・・・神の犯した誤り グレートデーン・・・・・・・ビスマルクの右腕 ハト・・・・・・・・・・・・・・失業者たちの憂い ペンギン・・・・・・・・・・・抱きしめたい! カメレオン・・・・・・・・・・喜怒哀楽の七変化 ゴールデンハムスター・ゴールドラッシュ・未来編 プードル・・・・・・・・・・・インテリという名の足かせ サイ・・・・・・・・・・・・・・反逆児ブルタリス ゾウ・・・・・・・・・・・・・・ぼくたちの安らぎのために 以上、目次より
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カキによくあたります。週末にはたいてい、スーパーで買ってきたお惣菜が夕飯のおかずとして並ぶのですが、いつも必ずカキフライが1パックその中に含まれています。そのカキフライにしてもそうだしー、あと近くのフランス料理やさんでカキを食べたときもあたりました。ただし「食中毒」と呼べるくらいの激しいものではなく、下痢するくらいです(ちょっと汚いこと書きましたが(事後報告)これ以降はありません)なので、ぶっちゃけあたってもいいや、っていうか、最近はむしろ運試しくらいの気持ちで旺盛にカキフライを食べてます。てことに気付いたのが今日。夕飯のときに、やはりカキフライに箸をのばしながら、「あたるかな〜」とワクワクしてる自分を見出しました。ここで重要なのが、無闇にマゾヒステッィクもしくはサド、もしくは自傷的もしくは露悪的な精神っていうのが最近私は嫌いであるということで、例えば「このカキあたるかな〜」とワクワクした感じで言った場合、すぐさま「ふっ。ブラックなこと言やあ良いと思ってるんでしょ」ってツッコミたくなるような、回路が最近はもっぱら太くなりつつあるのです。それが今日、例外的にツッコみたくならなかったのは、むしろそういう「ささやかな危険」を冒せる私はいま幸なのねというか、要は修論提出も単位がかかったプレゼンも大方済んで、最近は差し迫った重要事がない。心おきなく体調を崩せることからこうした思考に至ったことに気づき、「このカキあたるかな〜」に露悪よりも久方ぶりの精神的な余裕を見出したからでした。久方ぶりでだいぶ懐かしい。
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開くとモチーフが組みあがってとび出す絵本。子供用でないところが良くて、モチーフは全て白で、雪や湖をあらわすのに銀やオーロラの紙をたくさんあしらっている。誠実に美を追求している感じがエキシビションの中野友加里的な。 尾根のむこう 冷たく激しい流れを あびて きらめく 光の中 年寄りのクマが 踊る など、添えてある言葉も綺麗でござる。 |
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最近、今まで使っていたファンデーションが間違っていたことに気付きました。
私自身、「日本人である」ということがすごくあるものですから、「私は日本人である」、「日本人は黄色人種である」という連想から、「私は黄色である」と思い込むに至り、ファンデーションの色味に大きく「ピンク系」と「オークル系」とあるところを、迷わず黄の強い「オークル系」を選択していたのでした。 でもどう考えてもどう逆立ちしてもピンク系であることがこの本――
を見て判明。なるほど、それで色浮きが激しかったのだなーと思い、ファンデーションがなんと800円台で買える「ちふれ」化粧品からピンク系を購入して使い始めたのでした。 |
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猫に関して私が感じていた湿っぽさを、まさに表現として結実させている本を見つけました。
出てくるのはいずれも「何かをのせられた」猫たち。お菓子であったり、そこらへんにある日用雑貨であったり、妙な衣裳だったり。それを猫たちは、時に恨みがましい目つきをしつつ、耐えています。もちろん乗っているのは軽いものばかりで虐待の気はないのですが。 |
ネコの写真満載だよ、っていう、飽くまで比喩としてのこのタイトルかと思ったのですが、微妙に違いました。 おてんば娘の“まんず”、やさしくて元気な“ニャンゴロー”、凛としたたたずまいのニコ坊、おしとやかな“ましゅまろ大仏”。4匹の子猫たちは、部屋におかれた土鍋の中でのお昼寝が大好き。ひとりひとつづつ土鍋を占拠したり、ふたりでひとつをシェアしたり、ときには4匹みんなでひとつの土鍋にかたまって“激盛り状態”になってみたり――。(内容紹介より) 実際にネコが鍋に入っています。ネコには裏切られてばかりです。 そして『めめぼん』のときも感じたのですが、(でもレビューは「可愛い」「癒される」「脱力」がメインなので、私の勝手な感じ方なのでしょうか)やはりどことなく湿った印象で、仮に犬ならばこうは感じないと思うのです。「あ、可愛い演出〜」くらいで。それがネコとなるとなんとなく受身で、意思をはっきり持っているようでありながら容易に被害者になるような。だから身体を丸めて鍋に入っているその様子が、やはりハラハラするのです。「スパイシーな癒し」とでもいいましょうか。 |
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プロローグ この奇妙な物語の作者が〈オペラ座の怪人〉が実在したと確信するようになった理由
1 怪人のしわざ? 2 新しいマルガレーテ 3 ドビエンヌ、ポリニー両支配人が辞任の本当の理由を後任のアルマン・モンシャルマン、フィルマン・リシャール両氏に打ち明ける 4 五番ボックス席 5 五番ボックス席(つづき) 6 魔法のヴァイオリン 7 五番ボックス席の点検 8 リシャール、モンシャルマン両支配人が〈呪われた〉劇場で『ファウスト』の上演に踏み切ったことと、その結果おきた恐ろしい出来事について 9 謎の二人乗り箱馬車 10 仮面舞踏会で 11 〈男の声〉の主の名前は、忘れるようにしないと 12 切り穴のしたで 13 アポロの竪琴 14 切り穴の好きな男の名人芸 15 安全ピンをめぐる奇妙なエピソード 16 「クリスティーヌ! クリスティーヌ!」 17 〈オペラ座の怪人〉との個人的な関係についてのジリーおばさんの驚くべき告白 18 安全ピンをめぐる奇妙なエピソード(つづき) 19 警視と子爵と〈ペルシャ人〉 20 子爵と〈ペルシャ人〉 21 オペラ座の奈落で 22 オペラ座の地下でひとりのペルシャ人が遭遇した興味深く、また示唆に富む危難――〈ペルシャ人〉の手記 23 拷問部屋で 24 拷問が始まる 25 「樽、樽、ご不要の空き樽買い取ります!」 26 サソリをまわすべきか? バッタをまわすべきか? 27 〈怪人〉の愛の終わり エピローグ 以上、目次より
もはや「古典」とも言える『オペラ座の怪人』がこうした柔軟な見出しを持ってるというのは嬉しくなります。 また、作中、いくつかの怪奇現象が怪人によって起こされ、後々タネ明かしされることになるのですが(ガストン・ルルーは『黄色い部屋の謎』の作者としても有名らしく、推理作家の側面を多分に持っていたようです)、柔らかいというか、「そんなの現実的に実行不可能だろ」と思えるそれ自体怪奇現象ような内容を「こういう仕掛けだったのである」と提示してきます。それも個人的には好きでした。 |
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イライジャ・ウッドが美少年らしいということで観ました。
仲の良い二家族がいて、でも妻は他方の夫と、夫は他方の妻と、それぞれ隠れて浮気してる。さらに子供たちも性的な遊びに足を踏み入れ・・・と、いわゆる「荒廃した」様子を淡々と描いていきます。それだけだと露悪的すぎる感。 ただ、娘役のクリスティーナ・リッチが自転車で走っているところを長回しした場面の表情など、人間がただ重力を受けて生きているだけで否応なしに感じる疲れのようなものを映し出しており、「あぁ、それじゃあセックスに走るわ」と妙に納得できてしまうという。 イライジャ・ウッドも美少年であり、総じて良かったです。 |
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読み進めて良かったのが、
こんなふうに始まります。 じっとりと暑い八月の晩、予定日を二週間後に控えたアシマ・ガングリーは、セントラル・スクエアにあるアパートのキッチンで、〈ライス・クリスピー〉のシリアルと〈プランターズ〉のピーナツと赤タマネギのみじん切りを、ボウルの中で混ぜ合わせている。これに塩、レモン汁、小口切りの青唐辛子を入れながら、ついでにマスタードオイルもあればよいのにと思っている。妊娠中ずっと、こんなものをつくって食べてきた。(p.7) 私はこういう個人的な描写で始まるものがどちらかというと苦手で、それは初っ端から個人的なこと書き連ねても当然興味持ってくれるんでしょ? って言われてるように感じるから。 でもそこをおして読み進めると、この作品に限ってはこういった細かな描写が決して自己満足でも、自己顕示欲でも、「自分だけの世界を作りたい」願望に支配されたものでもなく、じゅうぶん「本物」と思えるだけの精密さ、辛抱強さを持っていることに気付きます。(実際、個人描写に引っかかるのは日本語だからという気もします。原文の英語ならば仮に固有名詞が書き連ねられても「そこにそれがあるのね」と素直に受け取れるのですが、日本語だと一つ一つに妙な思い入れを感じてしまうというか) そして圧倒的な筆力の上に成り立つ、圧倒的なミドルの世界に圧倒されるのです。ミドルといっても中年じゃなくて、 ベタ ↓ ミドル ↓ 不条理 とあり(私の中に)、ベタでも不条理でもない中間層の作品は、地味な部分だとは思います。でも、そこが本当だろうという気もしていて、例えば人間は物理的にだいたい3キロから200キロくらいの範囲の中にいると思うのですけど、サイズが。すると何トンとかいう象の大きさになることはできないし、逆にゾウリムシほどの小ささになることもできない。「だいたい3キロから200キロ」という範囲がある以上、人間の感覚にも、ある程度範囲があるのじゃないかと思うのです。つまり、「ここが人間として生きてて一番問題になる部分」というのが、あるのじゃないかと思うのです。もちろん「ベタ」も「不条理」も人間の感覚の範囲内ではあるのですが、普通に考えてみて、例えば惑星がびゅんびゅん飛んできてもはや人間がダストのように死んでる、っていう不条理状態に陥ったら、逆に楽? みたいな。はっきりと精神病で入院している人よりも、「社会に適応できないほどでもない」普通に生きている人たちの方が、よほど大変じゃないか。そういう「手前の辛さ」がミドル部分にはあるよなぁ、それがベタの辛さよりも不条理の辛さよりも一番辛いよなぁ、大変だよなぁ、と最近は思うのです。 それで『その名にちなんで』ですが、この作品は、綿密な描写の積み重ねの上に、見事にその「一番問題になる部分」を描き出しています。 すると「死」の辛いこと。(p.79、p.273) |
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昨日発売の『せりふの時代』 p.253 に、「第13回劇作家協会新人戯曲賞、黒川陽子『ハルメリ』に決定」の記事が出ています。よかったらご覧ください。
載っている顔写真は証明写真で撮りました☆
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本屋さんで見て「なんだぁ?!!」と思った。
最初はたまたまこの表情をしたときにシャッターを切ったのかなとか魚眼レンズで鼻デカわんこ撮った人みたいに特殊なカメラ使ったのかなとか単に角度かなとか技術的な面を真っ先に疑ってしまったのですが世界は思ったより広い。そもそもタレ目の猫ちゃんなのだということが数ページ見て判明しました。 可愛いなぁ〜。 と思うと同時に、でも「なんだぁ?!!」と思ったときの驚きというか、異質さを思い出して。 「樽ドル」というのがあるというのを最近知ったのですが、そのときと似たような感覚が一瞬あったのです。比較的マイナーな嗜好の対象になり得るような、湿った印象。実際、ギリギリのラインのような感じがするのです。「タレ目で小さい猫ちゃん」として、極めて一般的な「可愛い」くくりにも入ってそうな、でも辛うじてのような、ハラハラする可愛さ。 |
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