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昨日はルーヴル美術館展に行ってきました。おひめさまになりたかったから。そしたら同じように考える人が他にもいたらしく、上野公園内から既に人の波。平日の昼間だというのに入場規制がかかっていました。
まわりを見回せば40代から60代の女性が中心で、思い出したのは先日の草野キッドです。お金のもうけ方について特集していたのですが、例えば将来コレクターアイテム化すべきフィギュアに先行投資しようと考えるとき、買っておくべきは人気の主役よりも脇役であると。というのは脇役は主役に比べ生産数が少なく、後々高値になる可能性が高いからなのですが、というのも、たとえば筋肉マン消しゴムが売れているのは昔これらで遊んでいた人たちが大人になり、お金ができて、何かを集めたいと思ったとき、まず考えるのは昔遊んでいたオモチャをコンプリートするということだからで、主役はもちろん、脇役までぜんぶほしい。そうしたとき元々レアな脇役はかえって重宝されるようになるのでした。 昔ベルバラを見てて憧れてた女の子たちが、歳をとって、お金ができて、時間もできて、主婦友もできて、ここにいるんだろうなぁ、と。それが証拠にお土産やさんにはベルバラアイテムなんかもけっこうあって、今回はすごくその点、客層をあらかじめ特定して進められたのだろうなぁと思ったのでした。 だから会場内は激混みだし、展示物の前に行くことも難しいしで、私がいちばん感心したのはドンキホーテをデザインした大きなタペストリーでした。大きくてよく見えて、あとは「布」だっていう点も、むかしの空気が染みこんでいる感じがしました。装飾性がウケ、ドンキホーテシリーズはけっこう流行したのだそうです。 |
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昨夜の朝日新聞夕刊に、これまで映画の予告編の製作を400作品ぶん手がけたという、小江英幸さんの紹介が載っており、興味深く読みました。先日、深夜番組でGAGAを特集しているものがあり、「映画の予告編て面白いなぁ」と思っていたので。やはり気になるのは、作品をいかにプロモーションするかという工夫。GAGAの特集でも、国や地域によって作品のアピールポイントを変えたりということは言われていましたが、「アクション映画を恋愛映画風に見せるのは当たり前」「物語の流れと関係なくシーンをつなぎ、映画にない効果音を使って想像力をかきたてる。米国の予告編から日本向けの予告編を作ることすらある。本編を見ず、わずか5、6分の素材をもとに、全く異なるものを生み出すのだ」(昨夜の記事より)少しずつ、私の想像を上回っていたのは、まず、「映画にない効果音を使って」という部分。これまで、映画予告編の醍醐味というのは、飽くまで与えられた素材からいかに「ウリ」を見出すか、そしていかに表現するかという、「限られた素材での調理」にあると思っていたのです。例えばアクション映画を恋愛映画風に見せるというのも、作品中に少なくとも「恋愛」と読み取れる部分があるからこそ可能だということで。それが「映画にない効果音を使って」で、あ、素材は無限なんだーと驚嘆したのでした。もちろん主な素材は決まっていますが、そこに外部から何かしらのものを持ってきても、それはそれで可能。そして次に驚いたのが「本編を見ず」。「自分が理解していないと他人には教えられないんだよ」ということをテスト勉強のときによく言われ、「だから教えるつもりで覚えると良い」みたいに諭されたことがあるのですが、全く作品のことを理解していなくても映画のプロモーションはできるのだな、と。例えばアメリカ版予告編から日本版を作り、そこから中国版を作り……というふうにやっていくと、それこそ伝言ゲームのように、どんどん変形していくということもあり得るのではないでしょうか。もしアメリカ版の段階で「映画にない効果音」が使われており、それを見た日本の予告編製作者が、もともと映画に含まれていた重要なサウンドと誤解して、よりフィーチャーする可能性もなくはない。数カ国を経た段階で、もはや作品の原型を全くとどめなくなってしまうもの、もしくは逆に、なぜか本質に近づいてしまったものなど、色々想像できて興味深い。昨夜の記事にはまた、「ロッキーが殴られても、殴られても立ち上がるシーンをつないだ「ロッキー・ザ・ファイナル」の予告編。依頼した20世紀フォックス映画の古川理佐子さん(42)はいう。「スタローンが殴り返すシーンをあえて入れない。日本人の感情をつかむ術を知る怖い人です」」という記述。非常に面白かったのですが、日本人向けにカスタマイズされた「倒れるロッキー」バージョンから、例えばタイの予告編製作者が予告編を作ったとしたら、日本人的感情にタイ的スピリットが加わるわけで、もしくは日本人的感情のところからタイ的スピリットを新たに見出すわけで、すごく無国籍な平和的ロッキーができあがりそう☆☆☆
ということで、私の人生にはどんな予告編がつくのだろうと考えたのでした。もし私の人生が終わったとき、私の人生のすべてを素材に予告編を作るとしたら(人生が終わって後に予告編というのが既におかしいですが)、予告編の自由をもってして、どのように演出されるのかなぁと。フィーチャーする場面によって、輝かしくも、もしくは陰惨にも見えるだろうし、涙に暮れているシーンに感動的な音楽をつければ、実際は弟めにお菓子を取られてくやしーーーーて泣いているのだとしても、綺麗に見えちゃうだろうし、恋愛経験なんてほとんどなくても、わずかな素材をとことん活用し、「恋多き人」みたいに見せることも可能だろうし。美女っぽく、編集してもらうことも可能だろうし。 |
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最近はもっぱら中島みゆきの『一期一会』をお風呂の中で歌います。というのは、先日放送の『世界ウルルン滞在記ルネサンス』ギャル曽根がゲストのものを録画してあって、それを繰り返し見ているから。そのオープニングテーマが、『一期一会』なのです。
歌詞が良くて、 見たこともない空の色 見たこともない海の色 見たこともない野を越えて 見たこともない人に会う 急いで道を行く人もあり 泣き泣き道を行く人も これがAメロ?(飽くまで私が聞きとった範囲です) 最近のJポップにはなかなか見られない壮大さと、キメ細やかな情緒が混在しているあたりが中島みゆきならでは。 そしてサビなのですが、 忘れないよ 遠く離れても 短い日々を 浅い縁(えにし)も 忘れないで 私のことより あなたの笑顔を 忘れないで ここをなぜか、すんなり歌えたことがないのです。歌詞も良いし、特に「浅い縁も」のところの中島みゆきの歌い方がすごく好きで真似したくてたまらないのですが、どうしても間違えてしまう。というのは、最初の「忘れないよ」を無意識に「忘れないで」と歌ってしまうのです。そして何かおかしいなぁ・・・と思いながら次にくる「忘れないで」を「忘れないよ」と言ってしまい、「私のことよりあなたの笑顔を忘れないよ」に至ってやっぱりおかしいぞとグシャッと終わる感じ。それで覚え直すのですが、次に歌うとまた先に「忘れないで」と言ってしまうのです。中島みゆきはこのあたり、すんなり歌っているはずなので、要は頭の構造が違うのですが、最近思ったのは、「あー私の歌い方は交換条件なんだぁ」って。中島みゆきが先に「忘れないよ」と自分の意思を示すのに対し、私のパターンは逆。まず、「あなた忘れないで」そして、「そしたら私も忘れないから」と続くのです。あなたが先なのです。あなたがどう出るかにかかってるのです。 |
![]() 不要になった紙を使ってしおりを作るとき、ビニルテープで表面の絵と裏面の不要な印刷とを剥離させるということをします。するとこういう、半透明の感じになります。 大きなリボンをつけた女の子は『ドッグヴィル』のリズ役のイメージ。リズ役のクロエ・セヴィニーさん、どこかで見たことがあるなと思ったら『パーティー★モンスター』でした。インデペンデント映画のミューズだそうです。いい女優さんです。 |
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今日のテレフォンショッキングは平山あやがゲスト。良かった。何が良かったって、栃木を推してくれてた。ゲストが出てきて、紹介のテロップに「栃木県出身。〜〜」と流れただけでも嬉しかったのに、まず、出演映画のポスターをタモリさんに渡すところで、最初にヒット作『陰日向に咲く』の紹介をして、その次にもっと最新のこの夏公開の作品のポスターも出して、それが『那須少年記』という作品。いわずと知れた栃木県那須。「お〜、栃木。やりやすかったでしょう」みたいにタモリさんに言われて、「はい、実家から通ってました、撮影のときは」みたいなことでひとしきり郷土の話をしたあと、今度はお土産を渡すところで「いっぱいあるんですけど」って、農業をしているおじいさんたちが作ったお米やウド、それからお父さんの友だちが作っているというカンパンなんかもプレゼントして、さらにダメ押しがコーナー最後の100分の1アンケートでした。「わたし、黒磯市の出身で、いまはもう合併して那須塩原市になってしまったんですけど、この中で黒磯市の出身という方」ときいたらなんと1人。見事ピンク色のストラップをもらっていて、栃木キタって思った。
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来月の昨日からはじまる―― ![]() 九屋あんずさんの個展に参加させていただいています。 九屋あんず第弐回展覧 「桜國」 期間 3月11日〜23日 開催地 東京 麻布十番「縁縁」 作画と首謀 九屋あんず(九屋あんず ひょうひょう時間) 演出写真 みなと (Romantic Magical Night) 作者写真 tomox (type tomox) 演出文面 黒川陽子 (クラスクロカワ) --------------------------------------- デジタルではわからない 見たことのない九屋作品を是非ご覧いただきたいとおもいます。 美しい色彩を奥に隠した不思議な切り絵。 流行の映画「恋数多嘘簾」(こいはあまたうそすだれ)。 その広告がかざる桜まみれのおかしな新聞。 何処までも貴方に迫ってくる桜は、また何処までも引いてゆく。 どこまでが嘘で何処までが本当か。 是非いらしてください。 --------------------------------------- 黒川は嘘脳濫用して新聞を作ります。ぜひぜひ展示会場でゲットしてください★ |
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遠くから見つめていたものがいまなら手に入るかもしれない。時空を越えた旅とあたらしい商品カタログ。 (商品説明より) クラフト・エヴィング商會の作品。かつて『ミツバチのささやき』という映画を観たとき、主人公を演じるアナ・トレント嬢が手にしている鞄が気になった。もしその鞄が手に入ったとしたら、中から出てくるのはきっと―― という設定で、「エッジの小さな劇場」や「ひとりになりたいミツバチのための家」等、ちょっと変わった架空の商品が綺麗な写真つきで紹介されています。この本はそのカタログという体。 アマゾンのレビューにあった意見が興味深くて、『ないもの、あります』ほどの笑いはなく、『どこかにいってしまったものたち』ほどのノスタルジックさもなく、思ったより普通だったと。 確かにそれはそんな感じで、要はパンチがない。でもそのこじんまりした感じが私個人にはちょうど良く、というのは多分、露店で買った綿飴の、飴の部分にかぶせてある袋を綺麗にとっておいて、洗って、自分の大切なオモチャとかを詰めて持ち歩いていた感覚と似ているからだろうな。 |
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「このタレはですね、創業当時からつぎたしつぎたしして……」というのを聞くと父は「うへぇ、江戸時代のが混ざってるんだってよ」みたいに言います。私はどちらかというと江戸時代のが混ざってると良いなと思うほうで、1ミクロンくらい混ざってるくらいなら食中毒にはならないのかな、1ミクロンくらい混ざってると良いなと思います。
でも今日考えてみたいのは、やはりそれは1ミクロンに過ぎないという部分で、いくら配分を同じに作ったとしても、新たにつぎたした分はやはりコピー。初代の料理長がひとり、深夜の(かはわかりませんが)厨房で調整に調整を重ねて、もはや何を作っているのかわからなくなった頃に「これだっ!」と思った、その全てのピースがはまった瞬間の生成物とはやはり異なると思うのです。勢いが。完璧なバランスを達成したそのタレはいわばひとつの宇宙のようで、「これだよ、ここ。もう何も足しちゃダメだよ。塩気ももういらないよ。甘みももう結構だよ。絶対動かしちゃいけないよ。絶対だよ」って料理長が思った瞬間に、いわば「閉じた」わけです。その壺の中、完成された状態で。 すると数日後、客に「おやっさん、凄いよ。芸術だよ。おれもの食って「芸術」って思ったのはじめてだよ」等言われて、やはり自分の感覚は間違っていなかった、これは秘伝すべきタレだと強い確信を抱きつつ、しかし改めて壺に残ったそれを見ると、一日中おたまを出し入れしたその表面は空気に撫でられて濁り、減り方もなんとなくだらしないような。「完成!」の瞬間の秩序はもはや消え去ってしまっているわけです。どこか処女喪失に近いような、感。 だから減ったぶんを補おうとして新たに作っても、もはやあの瞬間に戻ることはできません。むしろどんどん「完成」からは遠のいていくわけで、調味料の配分は再現できても、そのときの温度や湿度は再現できないわけですから、少しずつ、しかし確実にタレは方向をそれていきます。初代の料理長からすれば、もはや息子の作るそれは完璧なるまがいもの。・・・とまでは思わないかもしれませんが、でもどことなく「薄まっている」感じは抱きつつ、偉大なる初代料理長は天に召されたのでした。 その150年後。 タレは相変わらず受け継がれ、日々お客さんたちの口を喜ばせています。そしていよいよ「伝統」がタレに「本物」の輝きを与え、ある瞬間、1ミクロンが全体に波及するのを、天上の初代料理長は見下ろすのでした。 |
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すっかり宣伝を忘れていましたが、 日本劇作家協会の第13回新人戯曲賞を受賞した『ハルメリ』が収録された『優秀新人戯曲集2008』がブロンズ新社から発売中です(本体1600円+税)!!!! 他の最終候補作も全て収録されています。ウェブ上ですと、「セブンアンドワイ」や「紀伊國屋書店BookWeb」、「本やタウン」等で手に入ります。書店ですと、紀伊國屋本店や丸善本店で手に入ります。 どうぞご確認ください。 |
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コロンビアの小さな田舎町に住む17歳の少女マリアは、家計のためにバラ農園でトゲ抜きのバイトをしているが、ボーイフレンドの子どもを妊娠。仕事をやめることに。しかし、どうしてもお金が必要な彼女は、パーティで知り合った若者から、麻薬を胃の中に飲み込み、ニューヨークへ密輸する仕事を紹介され、報酬ほしさに引き受ける。彼女は、袋が体内で破れたら死んでしまう危険を知りつつ、62粒の麻薬を飲み込んだ…。(商品説明より) 貧困にあえぐ少女が望まぬ妊娠、生計のために麻薬の運び屋になるという筋に目新しさはありません。でもこの作品の凄いのは、麻薬を運ぶくだり。上の説明にもありますが、飲み込むことで体内に取り込み、いわば自らの肉体を容器にして国外に運び出すのです。その麻薬なのですが、粉状のものが一定量ずつ袋詰めにされています。一袋がだいたい巨峰くらいの大きさ。おそらくそれが丸呑みできる限界で、それをまた体内に取り込めるぎりぎりくらい飲み込んで、飛行機に乗ります。 そして上空。主人公は誤って麻薬の袋を排泄してしまい、苦肉の策として歯磨き粉で表面を滑りやすくし、再び飲み込みます。また、彼女と一緒に乗り込んだ運び人の中には体内の麻薬が元で体調を崩す人もいたりと、文字通り息の詰まるような空間。飛行機酔いなんて吹き飛ぶような壮絶な状況が、他の客には気付かれないところで淡々と繰り広げられるのです。 そしてここからは全く私の個人的な感じ方になるのですが、上のような状況を通し、私は「精神と身体の分離」というものを常に感じ続けたのでした。主人公が麻薬を運んでいる間、身体は単なる容器として、そして、時には容器にさえなり切れない不便なものとして存在しています。その状態におそらく近いと思われるのが、病気になって普段より身体の限界を強く意識している時。実際、主人公は飛行機の中で、「これ以上悪くならない」よう祈る病人のように身体をこわばらせ、時間が過ぎるのをじっと待っています。 そしてそんな極度に身体を意識する状況にあって、精神は妙に崇高というか、これもまた完全に個人的な感覚なのですが、例えば病気になったとき、「こんな色々考えないで済めばずっと楽なのにな……」と思ってしまうような、妙な「いらない」感を精神に対して抱くのです。何も意識せずとも身体と精神が一体化している日常を離れ、身体が極端に弱った状態で、精神は独立します。それを丸ごと持て余し、「こんなに高度なものあってもいま困るんだよ〜、いらないんだよ〜」って。もちろん、身体が弱ると精神も弱るということもあるかと思いますが、それよりは手前の、飽くまで「身体」と「精神」を強く意識している状態です。その図式を、私は麻薬を運んでいる最中の主人公に感じたのでした。 すると何が凄いかというと、最後、主人公はある決断をして歩き出すことになるのですが、そこでは彼女の「決断」が彼女の「身体」を動かす、つまり、精神と身体が一体化した状況が提示されるのです。彼女の精神が再び彼女を支配し、しかし以前とは違い、それまでにさんざん私は「精神」の崇高さみたいなものを意識しているわけですから、その崇高さが今度は彼女の隅々まで行き渡り、彼女自身、あたかも崇高さの結晶になったかのように感じてしまうのでした。この作品の原題は "Maria Full of Grace" なのですが、まさにその "Full of" の感じ。もちろん以上のような流れは意図されたものではおそらくなく、私がサブ的に抱いたものに過ぎないとは思うのですが、それで強調されたラストはかなり良かったです。 |
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最近母がテレビを見ながら「この若い子たちが使っている『普通に』っていうのは一体何なの? 何なの?」と目を見張るほどつっかかったことがあったので、少し考えてみました。「普通に」って、確かに良く聞くのですが、そんな古い言い回しじゃなかった。確かに気持ち悪いなと、NHK的にも感じたのか(?)、実は少し前に「みんなのうた」で新しい言い回しを概観するような歌が流されていて、そこに「普通に」も取り上げられていたのです。そして「普通に」とは「割と」の意味であると。
答えが出た。 でもそれなら「割と」と言えば良いわけで、「普通に」にはもっと特有のニュアンスも含まれると思い、思ったのが、おそらく「普通に」を使う際には、何らかの事柄をその複雑な背景から切り離して評価するという意味合いがあるのではないかなと。例えば「普通においしい」という使い方をする場合、言葉を補えば、「(これ大して料理もできないパパが家にある材料で滅茶苦茶な手順で作ったエビチリだけれど)普通においしい」という感じ。そんな複雑な背景はありながらも一般的な価値基準での「おいしい」の範疇に入りますよ、自分は甘い採点をしていませんよ、という意思表示が含まれているのではないでしょうか。当然、馴れ合いの関係よりは一般的な市場の方が厳しいに決まっているので、結果的に「割と」の意味合いが含まれるのだと思います。 また、「普通に」とわざわざ言うということは、普段の状態が「普通」じゃないということ。つまり、複雑な文脈を汲み取って、その状況の中でいちばん求められている発言をするのが常態であり、そうした自分のいる位置の特殊性みたいなものをひとつのプライドにしている我々。 また、必要とあればすぐさま一般的な市場価値で判断できるということも重要であり、それも我々としてはプライドの一部。 結果、その時々、即席で形作られる一時的な共同体と、無名性に支配された全体との間を絶えず行ったりきたりする我々の状況を反映した言葉だったのだろうな(過去?) |
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今日の下野新聞の第一面に、小中学生の絵画コンクールの結果のようなものが発表されていました。そこに最優秀賞を受賞した作品も掲載されていたのですが、それを見ていて思ったのは、「あぁ、このSマークなぁ・・・」と。
学校で配られる画用紙の隅にはよく、小さな穴の連鎖で「S」の形が刻印されていたように思うのですが、それを何年かぶりに見かけて感慨深くなったのでした。夏休みの絵画やポスター、また、図工の時間に改まって絵を描くときなどにはいつもあのマーク付き画用紙が配られたのですが、それが近くの文房具やさんとかには売ってなくて、書き損じちゃ大変だ破っちゃ大変だとワキワキしながら製作していたように思います。同時に、やはり小さな穴でできているという性質上、絵の具がそこに溜まってしまったりして不恰好なのですが、それが良くて、何で良かったのだろうと考えたら、それによって「作品」が良い具合に汚され、自分だけの閉じた世界が開くかのように感じていたのではないかと。 今でこそシャッシャッて感じで描くこともできますけれど、当時私はやたらと絵の具を塗り重ねる体質で、その結果、絵の表面がひび割れたり破けたり、せっかく良さそうに描けた自分の顔がおばあちゃんのようになったり、さんざんだったので、浮き上がった「S」に、私の絵をうまく商品化してくれるかのような希望を見ていたのだと思います。また、その画用紙が学校でしかもらえなくて、個人的に「買い求める」ことはできなかったのも重要でした。 |
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絵画についてもどこか抑制のきいた作品が好きで、例えば横尾忠則の作品でも個性の激しいポスター画より、ちょっとした非日常を描いた「Y字路」などが好きなのですが、この作品集も
その主な題材である「性」や「腐敗」そのものより、浸食されたような輪郭や淡い色合に惹かれて購入しました。だいたい画集を買うときなどには決め手となる一枚があるのですが、この場合は「鳥博士への提案」(p.32)でした。 また、ヤンセンの人生に関するかなり詳しい記述も載っていて、九十歳で亡くなるとき「あと十年、あと五年生かしてくれたらもっと一人前の絵描きになる」と言ったと伝えられる画狂人・葛飾北斎への憧れから、北斎の作品を意識した創作もかなり行っていたと。「自分はホクサイのように九十歳まで生きて、ホクサイと同じ数だけの絵を遺す」とも書いているそうです。そして実際、自らも「画狂人」と呼ぶにふさわしい生活を送っていたのでした。 しかし現実にヤンセンが亡くなったのは六十五歳。左脳の血栓を起こした後、回復がかなわなかったのでした。また、亡くなる三日前にヤンセンを訪れた友人の言葉――「その日、私は彼の車椅子の背後から、彼の肩に手を置いてもみほぐして過ごしました。彼からはすでに目の表情も消え、誰彼の見分けもつかなくなっていたので、直接彼の身体に触れることがいちばんいいと思ったのです。そうすれば、私にはあの精気の失せた〈画家の眼〉を見なくて済んだのです」(p.129)からは、亡くなる直前のヤンセンが、もはやかつての熱情を失っていたことが読み取れます。命尽きるまで創作に執着した画狂人の最期にしても、最後に一切の創作意欲を失った画狂人の最期にしても、「創作って何なんだろう……」とは感じてしまいます。 |
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3年前くらいから雪がはらりともしなくなっていて、もう降らないのかなと寂しく思っていたら
![]() 今日は積もりました。さっそく携帯とトイレットペーパーと折り紙(撮影一式)を持って外に飛び出したのですが、 ![]() 裸足だったのですぐに音を上げて戻ってきてしまいました。以前は、「雪の日はかえって暖かい」くらいに認識していたのですが、間違いでしたね。 |
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キム・ヨナの身体がインクボトルだったら、足元の刃から染み出すインクは、リンク上に大胆なデッサンを描き出すだろう。
浅田真央の身体がインクボトルだったら、描き出されるのは日本画だろう。 ということで、フィギュアスケートが好きです。基本的に、普段、何かにハマるということがあまりなくて、フィギュアスケートに関してもハマっている意識はなかったんですけど、録画した全日本選手権のVTRをBGMのように流し続けている自分を発見。これはハマってると言って良かんべと思ったのでした。 何で好きかっていうと〜。やっぱりスポーツでありつつ美を競うっていうのが良いですね。だからエキシビションとかあまり好きでないのです。純フィクションだから。競技としての緊張感や節制があってこその美。オプションなのか? オプションじゃないのか? くらいがいちばん訴えられるのです。 だったら新体操は。と思われる方も当然あると思います。実際、やはり美を競うスポーツという点でけっこう好きで、ベッソノバとか好きなのですが、新体操は2位。フィギュアほどはときめきません。どうしてだろう。 非日常性の差。 ということにとりあえずは行き着いています。あの圧倒的な「非日常」としてのスケートリンクです。そして氷上にもかかわらず極端に薄着の選手たちです。刃のついた靴です。新体操ならば、それこそ家の延長線上で練習することもできますが、スケートはあの場所でしかできません。限られた特殊な場所でのみ成立するという性質が、フィギュアの美に磨きをかけていると考えられたのでした。 ということで最近は全日本選手権のVTRを繰り返し眺めているのですが、やはり何度も見ていると初見では追えないようなところまで目がいき、例えば客席の反応とか。選手が目の前に来たときのファンが、本人でなくモニターの映像を気にしているのを発見したりします。そしてようやく、純粋スケーティングに目が行ったのでした。つまり足元の動き。 やはり浅田真央はすごーい。こんなに滑らかなものかと思いました。他の選手がたびたび、スピードを出すためだけに数歩を費やすのに対し、浅田は振り付けの中でそれを行ってしまいます。つまり、ただ美しく滑っているだけでスピードが出てしまいます。そして極力、氷の表面から足を上げない。それに対しキム・ヨナは、今まで「滑らか」の印象でダントツだったのですが(比較するために前回の世界選手権のVTRを参照してみたのですが)、意外に大胆なスケーティングをしていることが判明。スピードを出すためにばんばん走るし、しかしそれが確実に効果を上げる、荒っぽさと正確さが同居しているあたりが非常に悩ましいのでした。ちなみに中野友加里は、キュルッと方向を変えることをよくします。 |
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ポーの『黒猫』というと、主人公が飼っていた猫に暴力を振るい、ついにとどめを刺そうとしたところに善良な奥さんが止めに入って、かっとした主人公は怒りの矛先を奥さんに向け、奥さんを殺して壁に埋める。しかし何かの拍子で猫も一緒に埋めてしまってある日、突如壁の中から聞こえてきた猫の鳴き声で主人公の犯罪が明らかになる、という話だと記憶していました。ポイントは猫が一匹であるということ。しかし、
実際に読んでみたら物語に登場する猫は二匹でした。一匹目の猫を主人公は早々に殺してしまい、その後そっくりの猫を新たに見つけ、家に連れて帰ります。そして上に述べたいきさつはその二代目の猫との間に起こったものなのでした。なぜ二匹か。一匹でも成り立ちそうな話ではないか。短編の名手のポーが。無駄を。と思ったのは、最近私の頭が本当に鈍っているからで、全く普通に考えてみても「なるほど、つまりこの二匹目は一匹目の猫の亡霊で、主人公を破滅させるためにあらわれたのね」くらいには思えそうなものを。さらに上の本には訳者解説で二代目の「黒猫」を主人公の「良心」とする解釈が載せられており、そこでもなお「でもこの猫がいたからこそ主人公は殺人を犯すことになったので、それ「良心」ていうのはおかしいよなぁ」と思ってしまった私は本当に酔っているとしか思えない。ぶひぶひ。とりあえず「良心があるからこそ殺人を犯すっていうこともあるか」と、昨日電車に乗っていてようやく思いついて、それから「私の隣の人、いま私が「殺人」て思い浮かべたこと知ったら気持ち悪がるかしら」とか、色々考えたのでした。 「良心のために殺人を犯す」というとどうしても『高瀬舟』を思い浮かべますが、この場合は違くて、つまり悪い性質を持つ自分を絶えず責め立ててくる「良心」にワーーーーッてなって殺ってしまうという。ストレス殺人の類なのです。極端に見えて、ポーは意外にミドルの世界を描いているのかもしれない。「私を人殺しに誘っておいて、告発の声を上げ、絞首人の手に引き渡した、この奸智の化け物を、私が壁に埋めていたのだった!」(p.26) |
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